オードリー・ヘップバーン物語

略 歴
 

 オードリー・ヘップバーンを一躍スターの座に押し上げた「ローマの休日」の撮影を終えたあと、1952年12月、ジェームズ・ハンソンとの婚約を破棄した。
 53年夏、彼女はパリで3度も観に行ったという「リリー」のメル・ファーラーに魅せられて、彼に会いに行く。
 ハンフリー・ボガート、ウィリアム・ホールデンらと「麗しのサブリナ」の撮影後、54年2月18日からニューヨークでメル・ファーラーとともに「オンディーヌ」の舞台に立つ。
 54年3月25日、「ローマの休日」でアカデミー主演女優賞を、その数日後、「オンディーヌ」でトニー賞を受賞し

た。
 9月24日、12歳年上のメル・ファーラーとスイスで結婚。55年3月、1回目の流産。2年ぶりの映画出演でメル・ファーラーと「戦争と平和」の撮影に入った。
 「戦争と平和」の撮影のあと、1956年あこがれのフレッド・アステアと「パリの恋人」に出演。
 続いてゲイリー・クーパーと「昼下りの情事」の撮影を終え、1年間休養を決める。しかし、57年2月4日、かつての契約でテレビドラマ「マイヤーリング」に出演、失敗作となる。


 

 1957年「昼下がりの情事」の撮影のあと、58年には、僧職を捨ててナチに対抗する看護師として世俗に復帰したシスター・ルークを描いた「尼僧物語」は大成功だったが、アンソニー・パーキンスとの「緑の館」は大失敗作に。
 59年1月、バート・ランカスターとの西部劇「許されざる者」の撮影中に落馬して重傷を負う。幸いお腹の赤ちゃんは無事だったが、撮影終了後、2回目の流産。その後は、「クレオパトラ」や「ウエスト・サイド物語」の出演を断り、60年1月17日、待望の赤ちゃん長男ショーンをスイスで出産した。

 60年10月、ニューヨークに出てジョージ・ペパードと「ティファニーで朝食を」、シャーリー・マクレーンと「噂の2人」を撮る。
 「ティファニーで朝食を」と「噂の2人」を撮った後は、ファーラー夫人として息子との3人の家庭に専念した。
 62年7月から再びウイリアム・ホールデンと「パリで一緒に」の撮影に入った。続いてケイリー・グラントと撮った「シャレード」が大成功を収める。
 「パリで一緒に」は批評家たちからシナリオに一貫性がないなど酷評されたが、ケイリー・グラントと撮った「シャレード」は大成功を収める。


 

 「シャレード」の撮影後、1962年の残りと、63年の前半を、息子とスイスで休んだり、夫のメルの撮影について行ったりして過ごした。
 その年の5月29日には、ニューヨークのウォルドーフ・アストリアホテルで開かれたケネディ大統領の46歳の誕生パーティに、前年のマリリン・モンローのように「ハッピーバースデー、ディア・ジャック」を歌いに行った。このころ「マイ・フェア・レディ」の話が決まる。
 「シャレード」が大成功となったあと、63年8月から、前年10月に協定した「マイ・フェア・レディ」の撮影に入る。
 結果的には舞台でのオリジナル・キャスト、ジュリー・アンドリュースの役を奪ったことになり、ほとんどの曲は、プロのオペラ歌手マーニー・ニクソンの吹き替えとなった。
 「マイ・フェア・レディ」は、64年10月23日にニューヨーク

で初公開、大成功を収めた。
 この後、65年7月からピーター・オトゥールと「おしゃれ泥棒」、アルバート・フィニーと「いつも2人で」、67年はじめには、夫メル・ファーラー製作の「暗くなる まで待って」に出演したが、9月1日、夫との別離を発表する。この間、2回流産している。
 その後10年近く映画界から遠ざかり、69年1月にイタリア人精神科医師アンドレア・ドッティと再婚し、70年に父違いの次男ルカを出産した。
 映画界への復帰は、ショーン・コネリーと「ロビンとマリアン」(76年公開)、ベン・ギャザラと「華麗なる相続人」(79年公開)と「ニューヨークの恋人たち」(81年公開)、そしてスティーヴン・スピルバーグ監督の「オールウェイズ」が最後となった(89年公開)。


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