エデンの東 

<East of Eden>  (55年)

<スタッフ>
製作・監督
  原作
脚色
  撮影
音楽

<キャスト>
アブラ
  キャル・トラスク
  アダム・トラスク
  アロン・トラスク
 

エリア・カザン
ジョン・スタインベック
ポール・オスボーン
テッド・マッコード
レオナード・ローゼンマン


ジュリー・ハリス
ジェームス・ディーン
レイモンド・マッセイ
リチャード・ダヴァロス
 「怒りの葡萄」「二十日鼠と人間」「赤い仔馬」「月は沈みぬ」「真珠」等の作品で著名な アメリカの文豪ジョン・スタインベックが1952年に発表したの25番目の小説の映画化で、 彼の近作として非常に高く評価されているものである。
 映画は膨大な原作の最後の三分の一に当たる孫の代に焦点を合わせたものだが、 スタインベックはこの小説の構想を練るのに11年の日数を要し且原稿を書きあげる迄更に丸1年を費すという 力の入れ様だった。この作品ほどこまでも人間性を追求した力づよいドラマで旧約聖書に 記されだアダムとエバと、その間に生れたカインとアペルから題材を得た事は言う迄もない。
 監督ほ今を時めく「紳士協定」「波止場」で2個のアカデミー賞に輝く名匠エリア・カザン。 3度オスカーを得んものとテクニシイアン、カザンは野心満々、初めてのシネマスコープと取っ組んだわけで、 今迄シネスコの弊害とされたいた横長の空間を実に巧妙な手法で生かしており、更に一例をあげれば 画面を斜めから撮る等、変ったカメラ・アソグルを使用するなど新しい演出方法でのぞんでいる。
 脚本はニューヨーク劇壇の第一人者として文芸もののシナリオに独自の才腕を振うポール・オスボーン、 撮影にはハリウッドに於て最優秀カメラマソと讃えられ近くは「語らざる男」でリアルな味を買われている 巨匠テッド・マッコードが当り、 素晴らしいカメラワークを見せている。装置は「欲望という名の電車」でカザンと組んでアカデミー賞を 与えられ叉「ダイヤルMを廻せ」「スタア誕生」で東洋風な作風を披露して好評を呼んだ 名手ジョージ・ジェイムス・ホーキンス。美術監督は「スタア誕生」のマルコム・バートと ヴぇテラン、ジェイムス・ベースヴイというカザソ好みの2人が共同で当り、叉編集には「白熱」で てきぱきとした処理を見せたオウエン・マークス、音響には「カラミテイ・ジェーン」「荒野の貴婦人」 の才腕スタンリイ・ジョーンズがそれぞれ活躍している。そして此処で更に特筆に価するのは新進作曲家レオナー
ド・ローゼンマンの音楽である。
 主演は新人発掘の名手ガザンが数ヶ月間を要して捜ぐり当てたジェイムス・ディーソと ジュリー・ハリスの2人。ジェイムス・ディーンはここ十年来の掘出し物として若年にも似合わぬ強烈な パースナリティを武器として出現、大器晩成のタイプとして前途有望な新人である。 そしてディーソの相手役に選ばれたジュリー・ハリスまた然り、彼女ほニューヨーク舞台の花型女優として 高名を馳せ叉映画のデビュー作であつた「結婚式のメソバー」で堂々たる演技からアカデミー主演女優候補に あげられた事ほまだ耳新しい。
 この2人を助けて「ダラス」「愛欲と戦場」の名優レイモンド・マッセイ、 「男の魂」の新進気鋭スタア、リチャード・ダヴアロスが共演している。


 <物語>  キャルとアロンは同じ両親から生まれた兄弟であったが、然しそれが誰にでも信じられぬ程に 2人の性格は相違していた。父親へのアダム・トラスクでさえ時々そう思いたくなるのだ。
 彼の妻は2番目の息子キャルを生みおとすと直ぐにアダムを棄てで家を去った。 兄のアロンは父の信頼も厚く誠実温厚な町の模範青年だったが、弟のキャルは気むづかしやの暴れん坊で 何かと言えば事件を引き起すという有様で兄とは昼と夜の様に、全然異っていたのである。 「お前は悪童だ」とアダムが極めつければ「俺は不良さ、俺の不良性は母親譲りなんだ」と口答して 憚らない有様である。
 しかしそう言うキャルの心底にはのけ者の悲しさや哀れさが宿っているのだった。 或る日彼はサリナスの町から、ほど近い漁港モソトレーで母のケー下が購博場兼バーの魔窟で女将を していると聞き汽車に乗って賑やかな漁港モントレーえ出かけて行った。 そしてそこで働くアンという小娘の案内でケートに会うことが出来た。 ・・・  (115分)

 

ジェームス・ディーン物語

 ジェームス・ディーンは1931年2月8日、ワシントンに歯科医ウィントン・ディーンと妻ミルドレッドの間に生れた。

 父は当時ワシントンの病院に勤めていたが、彼が6つのとき、父の転勤でロサンゼルスに移るとプレントウッドの小学校に通い平穏な日を送っていた。だが彼が9歳のとき、母は癌という不治の病で一人息子の彼を残し、29歳の若さで世を去った。幼いジミーにとってこれは大きなショックであった。

 やがて病院勤めをしながらジミーを育てる難しさを知った父は、やむなく妹夫婦に彼を託すことにした。かくてまだ9歳ジミーは祖母エンマに伴われて父の故郷フェアモントヘ連れてこられたのである。ここの生活は少年ジミーにとって恵まれたものであった。信仰篤く裕福な叔父叔母ウインスロウ夫妻は、ジミーを喜んで引取ると二人の実子同様に彼を慈しみ育てた。

 ここのハイ・スクール在学中に彼は後日俳優として役立つ種々のことを身につけたという。まず彼はすべてのスポーツ、乗馬やオートバイをマスターしただけでなく、野球やバスヶツトボールからあらゆる陸上競技のチャンピオンとしても鳴らしたのである。49年にインデイアナ州で催された学生陸上競技大会でも優勝し、また闘牛のファンになったのもこの頃だった。

 一方、演劇にも興味をもっていた彼は、コロラドのロングモントで行われた学生弁論大会に出場してデイッケンズの「ザ・バッドマン」を朗読、聴衆に多大の感銘を与え賞を得たこともあった。その年サンタ・モニカに再婚して住んでいる父のもとへ帰り、ここのジュニア・カレッジヘ入った彼は、たちまち演劇教師にも認められ、いよいよ演劇の道に生きる決心を固めたのであった。

 しかし、父は俳優生活より法律を学ぷことをすすめ、翌50年カリフォルニア大学に入った彼は法科に籍をおいたが、演劇への道を諦めきれなかった。彼は自立を決意すると、あるエイジェントと契約し、ハリウッドのエキストラをアルバイトとした。

 この頃の映画には「底抜け艦隊」「誰か僕の恋人を見たか」(夫公開・ロック.ハドスン、パイパー・口ーリイ主演)等があるが、いずれも目にもとまらぬ役ばかりで発見係が発見しようもなかった。その彼に才能を見込んでニューヨーク行きをすすめたのは、当時大学近くに住みジミーと親交のあったMGMの中堅俳優ジェームス・ウィツトモアであった。
 しかし、100ドルを懐中にニューヨークへたどり着いたジミーに大都全の風は冷たかった。やっとチャンスに恵まれたのは、ふと知りあった船乗りが引合せてくれた船長から、はからずもブロードウェイのプロデューサーに紹介されたときに始まった。かくて端役ながら「ジャガーを見よ」の舞台でブロードウェイヘデビュー。

 芝居は不評にもかかわらずディーンの演技が関心を集め、その後1年間テレビや舞台で修業した後、54年、アンドレ・ジイドの「背徳者」で脅迫者のアラブを演じた彼はその優秀な演技によって同年の舞台における最優秀新人賞デイヴィツド・グラム賞や男優助演賞など数種を獲得、たちまちテレビでも一流プログラムに出演した。

 一方、エリア・カザン主宰の最高俳優訓練場アフタース・スタジオに入り、ここの最高ドラマ・コーチ、リー・ストラスバーグの指導を受けることになった。これがエリア・カザンの目に止って「エテンの東」のキャルのテストを受けることになったのである。

 これより先、キャルの適役としてカザンにジミーを推せんし、ひそかに彼をこの役に添って指導したのはストラスバーグであった。ディーンの「エデンの東」の成功のその陰には、実にこのストラスバーグの偉大なカがあったのである。

 「エデンの東」を彼の本格的デビュー作とみるならば、この「理由なき反抗」は第2作といってよいであろう。愛情もかなしみも人一倍強いくせに、それを素直に表現するすべを知らず大人たちに背を向ける青年ジムに、彼以外の適役は見出せない。5フィート10インチ、155ポンドといえば、あちらでは小柄ながらディーンのそのからだには、若さと魅力と、多彩な性格と烈々たる闘魂が溢れていた。多趣多才であった彼は、ボンゴ・ドラムのほかにピアノもよくし、作曲も勉強中であった。

 彼のスピート狂はハリウントて誰一人知らぬものはないほど有名だった。トイツ製のスポーツ力ー、ポルシェという新車で自動競走に出場し、3種目中2レースに優勝して、後でそれを知った全社の重役たちは肝を冷したという。

 しかし、それからまもなくの55年9月30日夜のこと、ディーンはカリフォルニア州パソ・口ーブル付近のハイウェイを自動車レースに参加するため疾走中、衝突事故のため即死した。時速150マイルという殺人的スピードで飛ばしていたそうである。彼の第3作、最後の作品となった「ジャイアント」を完成して1週間目の出来事であった。


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