わが闘争<Mein Kampf> (60年典) |
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<スタッフ> 製作 編集 音楽 日本語解説 |
トーレ・ショーベルイ エルウィン・ライザー マートン・ローランド 小山田宗徳 |
「わが闘争」の名を聞くとき、私たちはあのいまわしい時代を思いおこします。
理性がカを失い、狂気が地球上を支配したあの時代を。
この本はナチの独裁者アドルフ・ヒトラーが1924年に書いた彼自身の信条であり予言です。 それからの二十数年間、彼はそこに書かれた通りにすべてを実行しました。 政権の掠奪、再軍備、そしてユダヤ人虐殺……。 「わが闘争」は妄想と狂信の殺人ハイブルと化し、恐るべきナチの侵略の理論的た支えとなったのです。 しかし、ヒトラーの計画は敗戦によって、大きくつまずき、1945年、ついに自殺によって その失敗をつぐなわねばなりませんでした。 そして、空前の荒廃と全世界五千万人もの犠牲。これが「わが闘争」のもたらした結末でした。 この映画はナチの歩んだ「わが闘争」の歴史を、全く未発表のフィルムによって赤裸々に照らし出した驚くべき記録です。 ここに収められたフィルムの一部は、かつてナチが秘密警察員の反ユダヤ教育用に特に撮影したものです が、あまりの残虐さに、かえって逆効果になるのを恐れて、上映を中止し東ドイツの記録保管所に秘密のうちに保管されていました。 それを編集者エルウィン・ライザーが苦心の末に手に入れ、各国のニュース映画などのドキュメンタリー・フィルムを加えて、 一編の作品にまとめ上げたのです。 ライザーは戦時中ナチに追われて、スエーデンに亡命したユダヤ系ドイツ人です。彼はこの映画を作るに当たって こう語っています。 「ナチは人類の敵です。私は二度とあの悲惨さをくりかえさないために、人々の心からナチを憎む心を失わせないために この映画を作ったのです」 この映画は西ドイツほか、全ヨーロッパで公開され、戦争を 経験した世代はももろん、後世の若い世代にも深い感銘を与えました。ライザーの意図はみごとに達成されたといってよいでしょう。 この映画をわが国で公開するに当たり、当社としても、二度とあの誤ちをくりかえさないために――との切なる 願いをこめて皆様にお贈りしたいと存じます。 東和株式会社 | <梗概>
1914年に起こった第一次大戦は帝政ロシアの崩壊と革命、そしてドイツの敗北をもって終わりをつげた。
ドイツ皇帝カイゼル・ウィルヘルム二世は退位し、共和政体が生れた。だが新しい共和国は
ベルサイユ条約によって、戦争の償いをしなければならなかった。アルザス・ロレーヌを
フランスへ、ボーゼンとにしプロイセンをポーランドへ譲ったほか、いっさいの植民地を失い、
1千億マルクを超える莫大な賠償金を支払わねばならなかった。
だが、狭くはなっても、貧しくはなってもドイツの国土と精神は厳とレて残っていた。 軍事工糞は解体され、兵力は十万と限定されたが、主権は脅やかされなかった。 しかし、国民はこのベルサイユ条約を苛酷なもの屈辱的なものと信じていた。 ワイマール憲法が制定されても、ドイツの栄光を信じる人々は敗北をすなおに認めようとはしなかった。 そして右翼の勢力はますます強まっていった。 1920年、アドルフ・ヒトラーはナチス党を創立し、公然とベルサイユ条約に反対して立ち上った。 彼に共鳴するものは制服に身を固めて街を行進し、政治テロを行なった。翌21年、彼は突撃隊を組織し、 失業士官や狂信的な民族主義者を同志に加えた。 たまたま、ドイツは甚だしい経済的苦境におちいり、マルクの価値はとめどなく下落した。 ヒトラーはこれによって生じた社会不安を利用した。ここで、彼はクーデターを計画したのである。 23年11月、ヒムラー以下の突撃隊をひきいて、バイエルンにのりこみ、国粋ドイツ政府の樹立を宣言した。 しかし、このクーデターは失敗に終り、ヒトラーはランズベルグの要塞に檻禁された。 ここで彼は腹心の友人ヘスに「わが闘争」を口述筆記させたのである。ここにはドイツとオーストリアの併合、 フランスへの宣戦、ドイツ民族を守るためのユダヤ人虐殺など、さまざまのスケジュールが説かれていた。 当時、この本は大多数の人々から笑いものにされた。だが、これが笑いごとでなくなると誰が予想しえただろう。 彼は釈放されるとナチの再建にとりかかった。その結果、党員は少しずつふえて行った。 そして、28年、党ははじめて12名の党員を国会に送りこんだ。・・・(122分) |